秘密の花園by鈴置万里子


 お日様をいっぱい吸ったみたいな金の髪がシンタローは大好きだった。
 パパの髪は柔らかくていつも良い匂いがした。
 蜜色の髪に顎を埋めて両手を絡めると、綺麗にくしけずられたそれをシンタローはすぐくしゃくしゃにしてしまうのだけれどパパが怒ったことはない。
 パパはとても大きくて、広い背中に乗せてもらって肩車してもらうと小さなシンタローにもいろんなものが見えた。
 空は大好きなパパの瞳と同じ色だからもっと近づきたい。
 なんだかもう少しで触れられそうな気がしてシンタローは大きく手を伸ばす。
 「ほーらシンタロー、高い高い!」
 無邪気に喜ぶシンタローを喜ばせるためにマジックは肩に乗せた体を持ち上げてさらに大きく宙にほうり上げる。
 「キャーハハハ、パパー、もっとー!もっと高くー」
 ぽーんと跳ねるように軽やかに空に舞う小さな体はマジックの大きな掌に心もとないような重さしか伝えず、力いっぱい抱きしめたら壊れてしまうのではないかとらしくもく不安になるのはこんなときだ。
 小さな命の重みはマジックには何ものとも代えがたいほどの重さを持つ。
 「パーパー!」
 地面に下されたシンタローはそのまま駆け出していくと、咲き乱れる花々の間からマジックを振り返って手を振った。
 「早くー」
 こっちこっちと呼びかける小さなシンタローの姿は、花の間に見え隠れしながらマジックを呼ぶ。
 そこがガンマ団という世界でも最強の殺戮集団の異名を持つ軍団の本拠地だとは思えない、美しい花々が咲き乱れる楽園のような一角に遊ぶ小さな子供の無邪気な笑い声は高く空に響いた。
 シンタローのためだけに作られたその楽園で、シンタローはその年まで優しい父親の姿しか知らずに育てられたのだった。
 天真爛漫な笑顔が愛くるしい、天使のようなわが子をマジックは目を細めて眺めた。
 花園のそこかしこにはシンタローがべトコン戦法のパンジステークを仕掛けてはいるがそれさえもマジックには可愛らしい子供の悪戯にしか映らない。
 シンタローが掘った穴の底に先端を尖らせた竹の穂先がマジックを狙おうと、ガンマ団総帥の息子としてはむしろほめられこそすれ叱ることなどなにひとつないと思っている。
 くるくるとよく変わるシンタローの表情は明るく、くったくがない。一点の影も持たず晴れやかであどけない幼子がマジックだけしか映さずに信じきった目をして見上げてくるのにどうしようもないいとおしさがこみ上げる。
 シンタローはいとけない仕草でマジックの服の裾を泥で汚れた拳で握りこむようにしてつかんだ。
 マジックが着ている戦闘服は敵の返り血を隠すために真っ赤な色をしていたが、もちろんシンタローはその理由を知らない。
 シンタロー以外、たとえ服の裾にでもマジックに触れる者はいなかった。戦闘服でさえも一分のすきもない身のこなしは最前線の只中にあってさえ崩れることはないのだ。
 味方にさえも恐れられる男がほんの幼い子供を相手に笑み崩れている。その光景はほほえましいというよりも、どこか見る者の背筋を寒くするなにかがあった。
 「かわいい、かわいいシンタロー」
 マジックにとってはシンタローの黒い髪も瞳もその顔立ちも、自分に似ていないことなどもどうでもいい。一族の中でただ1人、秘石眼を持たないことでさえ。
 「パパー、鬼ごっこしよう!パパが鬼だよ!!」
 そうはしゃいだ声でシンタローが叫んでマジックから手を離すときびすを返し、再び身軽に走り出す。
 「10数える間待ってね」
 遠ざかるシンタローの後姿をマジックは見守る。もちろんきちんと10数えた後、容赦なくシンタローを捕まえにいくつもりだった。子供らしく鬼ごっこなどと言い出したシンタローにマジックは不埒な思いから遊びに付き合うことにした。
 本気で逃げるシンタローを追いかけるのはマジックにとっても獲物を追いつめる狩りにも似ている。すぐにつかまえてしまっても面白くないから、さんざんシンタローを怖がらせるやりかたで追い立ててもいいかもしれない。久しぶりにシンタローの泣きべそ顔も見たいような気がするマジックは、もちろんその後なぐさめるのも自分の役割だと思っている。
 マジックは時間の許す限りシンタローのそばにいるのだが、子供はすぐに大きくなるから片時も目を離せないのだ。マジックはほとんどシンタローを自分だけの宝物のように抱え込んでいてその成長も独り占めしたいのだった。もちろんマジックにはガンマ団総帥という立場があったから文字通り四六時中傍らにいることは不可能だ。
 自ら最前線である戦場に立つことも多いマジックだったから、いくら目の届くところにおいておきたくても連れ歩くことなどは論外だった。
 なによりマジックは他人の目にシンタローの姿を触れさせることにも抵抗がある。
ただでさえマジックには敵が多い。同じ一族の実の兄弟でさえ、いや血が繋がっているからこそ信用していなかった。もし仮に血を分けた弟でも、敵になるならためらわず殺す。邪魔者また然り。
 シンタローが生まれるまでマジックには弱点はおろかすきというものがまるでなかった。一族の中でもマジックの両眼の秘石眼の力は絶大だったから彼自身への攻撃は無意味に等しい。マジックをつけ狙う敵だけではなく彼にとってかわろうとする味方の顔をした野心家たちにとっても、マジックが溺愛するシンタローはその幼さもあって格好の標的になる。
 花園を一歩出ればシンタローを取り巻く世界は血と怨嗟の声にまみれているのだ。
 だが、何も知らないシンタローにはマジックのキスと抱擁と温もりがすべてだった。
 1人駆け出したシンタローはさっきまでにぎやかにさえずっていた小鳥たちの鳴き声が聞こえなくなったことに気がついた。
 立ち止まって首を傾げるシンタローの前に、不意にその男は現れたのだった。
 ガンマ団に送り込まれた刺客である彼は正体を見破られて逃げてきた。追いつめられた男が選んだ逃げ場として選んだのが禁断の花園だったため、追っ手がひるんだすきをつく形になった。
 男は血走った目にシンタローの姿を映した。
 とっさのことでシンタローも逃げることなど思い浮かばない。不意に現れたマジック以外の人間をもの珍しげにまじまじと見つめていた。
 近づいてくる男が広げた両手が赤く染まっているわけをシンタローは知らないのだ。
 男はシンタローにつかみかかり、横抱きにしてそのまま連れ去ろうとした。
 いきなり抱え上げられたシンタローはびっくりして声を上げる。
 「やだっ、離し、て…っ!パパっ…―!」
 ばたばたと手足を振り回して暴れるシンタローの抵抗を男は簡単に封じてしまう。だからシンタローは必死でマジックを呼んだ。
 「パパっ、パッ…ん、っ」
 「静かにしろ」
 生臭い男の手に口をふさがれて息がつまる。本能的な恐怖にパニックになりかけてこみあげた嗚咽もすべて押しつぶされてしまう。
 シンタローの円らな瞳に涙がこみ上げて、盛り上がったそれが頬を伝う間にも心の中でマジックを呼び続けていた。
 「……シンタロー」
 金の髪に青い瞳。赤い戦闘服を纏った相手が誰なのか、男にも一目でわかった。
 低い、シンタローには耳慣れた声はけれど、その響きだけがいつもとまるで違う。
 同じ人間が発しているとは思えないほど、温度が違う。けれどシンタローにはそんなことに気がつく余裕があるはずもない。
 マジックは激怒していた。薄汚い男の手がシンタローに触れ、あまつさえ自由を奪い、口をふさいでいるのだ。
 「バカな男だ…」
 低くつぶやくマジックの背後には刺客として追われている男以上に怯えた目をしたガンマ団の団員たちがかけつけている。
 「もっと楽な死に方もあっただろうに」
 冷たい口調のマジックは嘲りを隠さない。そして、マジックには言葉と同じ冷ややかな一瞥だけで十分だった。怒りに満ちた双眸にいすくめられた男の体は熟しきったトマトのように膨れ上がり、体の先端からゆっくりと弾け散っていった。
 もちろんシンタローの体はとうにマジックの腕の中にある。
 シンタローには何が起こったのかさえわからないままマジックの大きな胸に抱かれ、首にかじりついていた。
 馴染んだ温もりに包まれてほっとしたシンタローの目に映ったのはマジックの背後で固まっている団員たち。彼らの怯えを含んだ目は救いを求めるようにシンタローにそそがれている。
 マジックはシンタローに関わろうとするものはもちろん、その身に害をなすものや触れようとするもの、その姿を映すものさえ許さなかった。団員たちはそばによることさえ禁じられていて、些細な過ちを犯したものたちが何人もマジックの逆鱗に触れ、粛清されていた。 掌中の玉ともいうべきマジックの愛息はその寵愛を一身に受け、だからこそ恐れられている。総帥の性格の苛烈さを側近達はよく知っていた。シンタローが絡むと、マジックには一片の慈悲も期待できない。
 マジックにとって天使のような子供はけれど周囲の人間にとっては悪魔にも似た存在だった。
 シンタロー自身はなにも知らないまま、その存在のために血の雨が降る。暖かく生臭いその水は今も団員たちの目の前で断末魔の叫びを聞かせることも許されないまま赤黒い肉塊と化したものから飛び散って、美しい花々に降り注いでいた。
 マジックの腕に抱かれたシンタローにはそんな光景は映っていない。ただ、自分を見て恐怖に目を見開いている彼らのその雄弁な視線に怯えてしまう。
 大きくしゃくりあげ、火がついたように泣き出したシンタローにマジックは慌てた。
 「シンタロー、ごめんよ怖かったんだね。ああ、パパが悪かった」
 「パパぁ…」
 「悪い虫はパパが踏み潰したから大丈夫だからね」
 マジックはこの上もなく優しい声音でシンタローの耳元に囁く。そうして塩辛い涙の味がする頬に唇を寄せる。
 「えっ…え、…パパ…―」
 しゃくりあげながらマジックに身を寄せるシンタローの小さな唇は男の手にふさがれていたせいで赤く汚れてしまっていた。それに自らのそれを重ねてマジックは丹念に痕跡をぬぐいとる。
 男の手の感触をシンタローが記憶にとどめることさえも許せなかった。
 「さ、もう怖くないだろう?パパがついているよ」
 「ひいっく…―ふえ…っ…」
 「ん?どうした?シンちゃんはいつからそんな泣き虫になったのかな」
 泣き顔を覗き込んだマジックは怯えたように見開かれた目が背後に向けられていることに気づいた。
 「ああ……あれは悪い虫ではないはずだったんだが」
 けれど、そんなふうにシンタローを泣かせるならやはり悪い虫なのかもしれないとマジックがつぶやく。
 「虫?」
 「そう…」
 真っ黒な濡れた瞳がその言葉に興味を覚えて輝いた。それに呼応するようにマジックの双眸も燃え上がる。
 2人の注視を浴びて団員たちは震え上がった。
 助けを求める声を聞かせることさえ許されないから、彼らは心の中でだけ子供の名前を呼んで祈りを捧げる。
 「そう、虫なんだ…」
 なあんだとつまらなさそうに繰り返すシンタローの興味はもはや団員たちの上にはなかった。
 秘石眼でさえなく力を持たないはずの子供の黒い瞳に彼らは絶望という言葉の意味を知る。






05.5.17 UP (初出 「わるいひとたち」より加筆&修正して採録)
三月コメント;
原稿のお手伝い&修羅場中の陣中見舞にいただいたパパシンSSでした。
UP遅くなってごめんなさい&ありがとーまりまり。