精霊の夜  by荒井ゆき様

 月のない夜だった。
 月のない夜は、妖魔の夜。
 それは子供の寝物語でもなんでもなく、月の加護のない夜は妖魔たちがもっとも活発に動きまわる闇の夜だった。
 星だけが薄く照らす夜の中を、少女が一人早足に石畳の道を歩いていた。
 その胸には小さな紙包みが大事そうに抱えられている。その少し前、少女は同じ道を走って医師の家に駆けこんでいた。病弱な母親が高熱を出して苦しみだしたので、医師に往診を頼むためだった。
 しかし医師は首を縦には振らなかった。月のない夜に自分から望んで外出しようとする者は、まずいない。そのかわりにと薬をくれたのは、その医師の良心だったのだろう。少女にはそれ以上彼を責めることはできなかった。


 胸元に抱えた薬の瓶が小さく音を立てる。石畳を蹴る自分の靴音が、後ろから誰かがついてくるような錯覚をおぼえさせる。
 闇の中で響く音はどんなに小さな音でもよく響いて聞こえるのは、どうしてだろうか。転んで薬を割らないようにと頭では思っているのに、その音に背中をおされるようにしてだんだんと足が速くなってゆく。
 早く、早く。
 鼓動までもが彼女を急かしてくる。
 ぼんやりと灯った街灯がつくる小さな光の輪が、そこだけが安全だと言っているように見える。
 少女は街灯の明かりの下を走り抜けると、家への曲がり角までやってきた。
 曲がり角にぽつりと灯る、黄色の光。それをめがけて走ってきた少女は、曲がり角から不意に現れた小さな影に思わずその場に立ちすくんだ。
 街灯の作る小さな明かりのなか、角から半分身体を乗り出しているようにしているのは、彼女の背丈の半分くらいはある人形だった。
 毎日働きに出かけるときに通る、大通りに面した人形屋。いかにも一流店であることを匂わせたその店のウィンドウの中に座っている、華麗なドレスを纏った人形。その夢見るようなまなざしとうっとりするような美しい顔は、少女の憧れだった。そんな、きっと彼女が10年働いても払えないくらいに高価なはずのその人形に、それはよく似ていた。
 どうしてこんなところに人形が、と考える。誰かが落としていったのだろうか?こんな綺麗な人形を?
 「……触ってごらん」
 不意に頭の上から響いてきたその声に、少女は弾かれたように後ろを振り返った。そして、思わずその場に立ちすくんだ。
 いつのまにか、彼女の後ろには人がいた。しかし彼女は悲鳴を上げる前にその相手の顔を見て、そのまま悲鳴を飲みこんだ。
 夜のように黒い長い髪に包まれたその白い顔は、少女が今まで見たことのある誰よりも美しかった。その美しさに一瞬胸が騒ぐが、それよりも先に向けられた甘くそそのかすような笑みに、心が溶かされる。
 「ほら、綺麗だろう……?触ってごらん?」
 すっと、長く白い指が人形を指さす。甘くとろけるようなその声は、穏やかな青年のもの。少女は抱えていた薬のことも忘れてうっとりと青年の顔を見上げると、その指さす先にある人形へと視線を移した。
 本当に、綺麗な人形だった。一度でいいから抱きしめてみたいと思っていた。
 ふわふわと雲を踏むような足取りで人形の方へ歩き出しながら、少女は抱えていた袋を取り落とした。
 しかし、石畳にあたって砕けるはずの瓶の音は聞こえなかった。彼女が落とした袋は地面にたたきつけられる寸前に宙に浮き、そのままで止まっている。しかし少女は自分が袋を落としたことにも気付かず、そのままふらふらと前に進んだ。
 白いデコレーションのようなドレスを着た人形は、じっと彼女が最初に見たままの姿勢で曲がり角からこちらを見ている。その姿勢が異常なのだと普通に見ればわかるはずなのだが、すでに彼女にはそれも理解できなかった。
 ボンネットから覗く髪は金色の巻き毛。それに触れてみたくて、彼女はそっと手を伸ばした。
 「……触るな!」
 突然響いた怒号に、彼女はびくりと身体を震わせた。それと同時にいままで動かなかった人形が突然ずるりと彼女にむかって動きだし、少女は悲鳴を上げることもできずにただひたすらその人形の顔を見つめた。
 目の前に人形の顔が迫ってきたと思った瞬間、静まりかえった夜を裂くように銃声が響いた。
 「……っ!」
 少女の目の前から、人形が横飛びに吹き飛ぶ。そして彼女自身も、まるで操られていた糸が切れたようにその場にへたりこんだ。
 「お嬢ちゃん、その人形に触るなよ。触ったら、そのまま魂吸い取られるぜ」
 ふいに、すこし高めの少年の声がその場に響いた。そちらの方へなんとか目を向けた少女は、大きく目を瞠った。
 街灯のわずかな明かりだけなのに、その少年はまるで光をまとっているように見えた。それが彼の持つ明るい金色の髪のせいなのだとすぐに気付いたが、まるで光そのもののようなその金色の髪は、闇の中で何かを導くように輝いていた。
 「海馬、保護を」
 銀色に光る銃を少女の背後に向けたまま、少年が叫ぶ。すると、何もなかったはずの少年の背後の闇が裂け、そこからするりと滑るようにして人影が現れた。
 それは、少年とは対照的に闇そのもののような青年だった。
 蒼く燃えるような瞳がまるで鬼火のように揺らめくその姿は、闇がそこで静かに燃えているようにも見えた。
 よく見ると、少年は襟の高い黒いコートのような服を着ていた。それが聖職者の着るものなのだということは、少女も知っている。その瞬間、自分がいままで何と関わっていたのかを、彼女は悟った。
 「ひっ……!」
 ゆらり、と影が背後で動くのがわかる。
 過ぎた美貌に、甘い声。それは、闇の申し子である妖魔たちの中でも高位に属する者たちの、共通した特徴でもあった。
 「……呼び出したかと思えば、こんなつまらん相手か。この程度の相手なら、貴様だけでもなんとかできるだろう?城之内」
 「うっせえな!偉そうにふんぞり返ってねえで、あの女の子保護しろ!」
 「面倒だ……」
 いかにもやる気なさげに海馬と呼ばれた青年はそう呟くと、軽く腕を組んだ。
 「いいから命令に従え!」
 「あまり、食べではなさそうだが」
 「この状況のどこが、てめえの食事の心配なんかしているように見える!」
 突然目の前で繰り広げはじめられた言い争いに少女は思わず目を丸くしたが、面倒げに海馬の方が彼女にむかって小さく手招きするのが見えた瞬間、突然もちあげられるようにして身体が宙に浮いたのがわかった。
 「……っ!」
 悲鳴をあげるより前に浮いた身体は青年のすぐ隣に移動しており、それに驚くよりも前に青年の指がそっと自分の首筋に触れたのが分かった。
 冷たい氷のようなその指が触れた瞬間、すっと目の前が暗くなった。しかしそれは貧血のときのような苦しさのない、まるで眠りの中に突然放り込まれたような、そんな感覚だった。
 ふわりと石畳の上に倒れた少女の身体を受け止めることもせずに海馬は少女から離れると、不満げに何かを払うようにして指先を振った。
 「そこそこと言うところだな。処女な分だけ、ましというところか」
 「……おまえ、そういう生々しいこと言うなよ」
 微かに顔を赤らめている城之内に海馬は唇の端をあげて笑みを浮かべると、銃を構えたままの城之内の首筋にそっと顔を寄せた。
 「やはり、匂いだけでも貴様の方が数倍美味そうだな」
 「……てめえ、こういう場面でふざけたこと言うんじゃねえ!」
 「別にかまわないだろう、そこの雑魚はもう逃げも隠れもできないのだからな」
 言うなり、海馬はまるで切り裂くような冷たい瞳を男へとむけた。
 「……おまえたち、退魔士か」
 「退魔士って言うか、「エクソシスト」だな。正確には」
 そういうと、城之内は銃を構えたままの姿勢で青年にむかって笑みを浮かべた。
 この世界にあふれた魔物を退治する人間を、通称退魔士という。
 退魔士や魔物ハンターの多くは退魔士ギルドに属しているが、それとは別に『教会』とよばれる聖職者の組織の中にも『エクソシスト』と呼ばれる退魔士たちの組織がある。数こそギルドにはとうていおよばないが、その歴史ち伝統ゆえに『エクソシスト』たちの能力の高さには定評があった。
 「貴様のような小童が、エクソシストだと……?」
 「ガキで悪かったな!」
 城之内は噛みつくようにそう叫ぶと、一歩前に踏み出した。
 「まだ全体的に幼いことには同意する。手際も悪いしな」
 「てめえは黙ってろ!」
 隣にたって茶々を入れてくる海馬に、城之内は声だけで抗議する。銃を向けられた青年は海馬の方へ視線を向けると、軽蔑したようなまなざしをむけてきた。
 「……僕に成り下がるとは、同族として嘆かわしい」
 「その相手に押さえつけられてる気分はどうだ?雑魚め。それに、きさまのような下等な者に同族扱いされるとは片腹痛いわ!」
 すっと細められた視線の先で、何かに絡め取られたように青年が不自然な動きで立ちつくした。
 「的は用意してやったぞ。貴様の見るに堪えないその腕でも、これなら当たるだろう」
 くくっ、と小さく喉の奥で笑った海馬を城之内は横目で睨み付けた。
 「ヘタって言うな!この間はたまたま外しただけだろ?」
 「どうだかな……。さっさとこのくらいは俺の手を煩わせることなく終わらせるようにしろ」
 「うるせえ!」
 ぎゃんぎゃんと言い争いをはじめた彼らに青年はその場から逃げ出そうとありったけの力を込めるが、拘束は緩まない。おまけにどうやら海馬は青年の言葉も封じたらしく、声を出して抗議することもできなかった。
 「……つべこべいわずに、さっさと済ませろ」
 「わかってる!」
 城之内はそう言って銃を構えなおすと、すっと真顔に戻った。
 「精霊と主の御名において……。闇の住人よ、挾間へと戻れ……!」
 城之内の手の中の銀色の銃が、火を噴く。光る弾丸がまっすぐと青年の喉に吸い込まれ、そこからぶわりとふくらむようにして光が弾けた。
 「……ぎっああああぁっ!」
 ざあっ、とまるで生き物のように長い黒髪が宙を舞う。夢のように美しかった顔が苦痛に歪み、崩れてゆく。光は大きな輪になり、その中に大きなクロスが浮かび上がる。その瞬間、青年の身体がひび割れてぼろぼろと崩れ落ちはじめた。
 崩れ落ちた破片は、そのままクロスの中に吸い込まれてゆく。そして最後の一片がクロスに吸い込まれた後、光は突然なにかに遮られたように消えた。
 その様をじっと見つめる城之内の横で、海馬は彼を見つめていた。『エクソシスト』の使う武器には色々あるが、城之内は銃を選んだ。それは彼を育てた『エクソシスト』が銃使いだったせいもあるのだろうが、彼が優しすぎるからということもあるのだと海馬は思っていた。
 退魔士の銃は、なによりも扱いが難しい。それは銃が魔物を砕くだけでなく、挾間に追い返すために使うこともできるからだ。送還の力を使えるのは銃と刀のみ。どちらも並大抵のエクソシストには使いこなせないものだ。
 送還された魔物は、砕かれはしても再生がかなう。ただ、一度砕かれた身体や記憶は戻らず、まったく別物の魔物として生き返ることとなる。そして、送還された魔物にはもう一つ共通した特徴がある。人を襲わなくなるのだ。
 海馬に言わせれば甘いということになるが、城之内は送還にこだわる。そのために、慣れない銃を使うのだ。
 

 その後、目を覚ました少女を無事に家まで送り届けると、城之内は教会へと戻った。
 礼拝堂の扉をしめて祭壇の前まで進むと、すでにそこには海馬が立っていた。
 「……遅かったな」
 「ん、送り届けたあと引き止められそうになってさ。それより、サンキュ。おまえの記憶操作、完璧だった」
 「当然だ」
 海馬は何を今更といった顔で、当たり前のように返してきた。
 「ところで、なんでてめえは普通の顔して教会に入ってくるんだよ!吸血鬼のくせに」
 「一応、貴様の守護がきいているからだと言っておいてやろう」
 自信たっぷりに笑うその顔は、そんなことは関係ないと雄弁に物語っている。
 退魔士の僕となった魔物や妖魔は、聖性への耐性を得ることができる。もちろん完璧というわけにはいかないが、すくなくとも主人の術で一緒に消されるというようなことはまずなくなるのだ。
 当然教会にもある程度出入りができるようになるのだが、それでもやはり居心地が悪いせいか妖魔たちは基本的には教会に近寄らないものなのだ。
 「それよりも、食事をさせろ」
 「……やっぱりそれかよ」
 城之内は脱力したように呻くと、上目遣いに海馬を睨み付けた。
 「さっき、女の子の血を飲んだくせに」
 「あんな少量で足りるわけがなかろう」
 「ざけんな!この間散々人の血を飲んでいったくせに!」
 「つべこべ抜かすな!」
 「ぜってーヤダ!」
 威嚇するように睨み付けながらうなるが、海馬はそんな城之内の拒絶をまったく無視したまま手を伸ばしてきた。
 「ヤダって言ってんだろ!」
 その手を叩いて落とすと、ぎろりと睨み付けられる。そのするどい眼光にひるみながらも睨み返すと、ふと何かを思いついたように海馬の瞳の力が弱くなった。
 「……そういえば、貴様今日がなんの日か知っているか?」
 「今日?なんかあったっけか?」
 「今では祝われなくなったが、貴様の属する教会の前身の宗教では今日は聖人の誕生日の祝日にあたる」
 「へー」
 長い時間を生きてきた吸血鬼は博識で、時々思いも寄らない知識を城之内に与えてくれる。しかし、その事が今の話とどう繋がるのだろうか。
 「その祝いの行事の中では、他人に恵みを与えよという習慣があったらしい」
 「プレゼントのやりとりでもしてたのか?」
 「らしいな」
 いつの間にかしっかりと腰にまわった腕に抱え込まれ、城之内はさりげなくその手から逃げ出そうとするが、かなわない。
 「というわけだ、聖職者の貴様には他人に与える義務があるとは思わないか?」
 「……思わねえぇ!!」
 必死に逃れようと手足を動かすが、当然人間離れした吸血鬼の腕力にはかなうはずもなく。
 「祝福の美酒を」
 「勝手に飲むな───っ!!」
 ヴァンパイアの吸血行為は、人間に性交の快楽に等しい快感を与える。
 それに、海馬は城之内の血を吸うときはことさら感じるようにしむけてもいる。首筋を舐めるときの舌遣いや傷口を塞ぐときにほどこす首筋へのキスも、どんな獲物に対するときよりも丁寧に与えている。
 知らないのは、本人ばかりなのだが。
 そして。礼拝堂に響くどこか甘さを秘めた悲鳴は、むなしく夜の闇に消えていったのだった。


 
 それは、どこか知らない世界でのクリスマスの夜の出来事。





            END








06.1.4 UP
SARAHの荒井ゆきさんよりXmasコラボ記念にいただきました(背景の元絵はこちら
本人は色気不足でごめんーと言ってますが、ラストのキスbefore描写は十分エロいと思います。しかも二人の痴話喧嘩がむちゃむちゃ可愛くて、喧嘩馬鹿っぷる大好物な私は萌え死ぬかと思いました。萌え話ありがとうございました!!